はじめに
人間界(物質界)と霊界の混同について、『奇跡講座(奇跡のコース)』のビデオをご覧ください。字幕も下に書き起こしています。
◆質問
講義の中で仰っていましたが、世界の中で私たちを打ちのめすように見えることも、実は子供のおもちゃみたいなものに過ぎない、とのこと。
そういったことは、誰かのささいなワガママなどであれば分かりますが、もっと深刻な、殺人やレイプ等の場合は、どうしてその様に軽く考えられるようになるのでしょうか?
◆回答
それも非常に良い質問です。これはこのコースの中でも、人々が混乱しやすい側面の一つだと思います。これは、私たちが「レベルの混同」と呼んでいるものです。
私たちがこのコースを教え始めた最初の頃から、いつも述べてきたことですが、『奇跡講座』は二つのレベルで書かれています。
「レベル1」と「レベル2」です。「レベル1」は形而上学的レベルで、それが、先ほどのご指摘のような絶対的なことを述べている箇所です。
そのレベルでは妥協がありません。真理か、幻想か、どちらかしかありません。神か自我があるだけです。
霊の世界か、肉体の世界(物理的宇宙)か、その中間はありません。どちらか一つです。コースの中の多くの部分が、このレベルで書かれています。
例えば、「もし神が実在するなら、苦痛は存在しない。もし苦痛が実在するなら、神は存在しない」妥協の余地はありません。
神の実在性を信じ、自分を神の子と認識するなら、苦痛を感じることはできません。
苦痛を感じるなら、それは、「神は存在しない」と証明しようとする自我の試みです。どちらか一つです。
完全な全一性という一元的世界にいるか、二元性の世界にいるか、どちらかです。そしてこの形而上的な教えが、このコースの思考体系全体の、根本的前提です。
同時に、このコースを世界中の霊性の教えの中でも、非常にユニークなものにしているのは、こうした一元論の形而上学を、この世で生きるための実用的なアプローチと統合しているということです。
それが「レベル2」です。そのレベルでは、真理というのは、聖霊やイエスによる「世界の知覚の仕方」であり、幻想とは、自我による「世界の知覚」です。
自我は、この世界を「逃れられない牢獄」と見ています。そこでは、私たちは分離し続けており、生存のためには攻撃しなければなりません。
聖霊は、世界を教室と見ています。それは依存として幻想です。しかし、「赦しのレッスンを学べる場所」という幻想です。
それがいつか、私たちを故郷へ連れ帰ります。そのレベルでは、殺人やレイプやエイズや癌を「ただの幻想」として無視したりはしません。
コースを真に実践するなら、人々に対して、思いやりが深く、心遣いが細かく、愛情深くなります。
しかも、真にそうなれるのです。この世界の人々がたいてい抱いている「隠された下心」が無くなりますから。
そして確かに、すべての病も、すべての苦痛も、助けを求める呼びかけであると認識するでしょう。
けれども、自分の経験を否定するようにと、求められているのではありません。
実際、テキストの初めのほうで、この世界では、自分の物理的経験を否定することは、事実上不可能であると述べられています。
ですからコースを学んでいる人は、例えば、「私の妻も子供もレイプされて殺されたけれど、それは取るに足らない愚かな想念にすぎない」などと、言うことを求められるのではありません。そうだとしたら、残酷です。
あなたに求められていることは、そのようなトラウマ的な経験を前にしたとき、イエスか聖霊をあなたの経験の中に招き入れて、それを異なった見方で見られるよう助けを求め、感じ方を変えることなのです。