幼少期-自己愛性人格障害の母とADHDの父による虐待

親子
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精神的に抱きしめられることのない幼少期

母は常にイライラしており、子供に怒りを八つ当たりして、不機嫌な態度で家族を支配することに依存している人でした。

「子供が自分を気遣い、優しくするのは当然」と思い込んでおり、話しかけても無視され、甘えることを許されず、いつもキツい口調でなじられていました(大人になって「なじられていたんだね」と、人から指摘されて初めて”なじる”という言葉を知りました)。

「自分は謙虚で理想的な人間」「自分は常に正しい」との病的な思い込みがある一方で、母の口から「ありがとう」や「ごめんなさい」を聞いたことは一度もありません。

非常に外面が良く、家族より他人からの評価の方が正しいと思い込んでいるようでした。客観性に乏しく、批判されることに敏感で自己反省が出来ないのです。

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父は酷いかんしゃく持ちでカッとなりやすい性格。今でいうキレやすい人。毎週通っていた将棋クラブで負けただけでも大爆発してペットの猫を蹴ったり、わめき散らしては物を壊して暴れるので、常に怯えながら暮らしていました。

また、少しでも思う通りにならないと、泥棒が入った後のように家中の引き出しをひっくり返して暴れることも日常茶飯事で、私が大切にしていた人形を壊されたり、物が散乱している光景を今も覚えています。

さらに母同様、言動に一貫性が乏しく、散々怒鳴り散らしておいて、次の瞬間には何事もなかったように甘えて話しかけて来るという、理不尽な行動は到底理解できませんでした。

母は「パパは病気」と言うだけで、無関心を装って保身を貫き、我が子を守ろうともしていませんでした。とにかく、両親とも「自分は悪くない」という防衛だけが強かったです。

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のちに数名のヒーラーさんから、父母の病名を聞きました。子供心に「頭がおかしい人達」と感じていましたが、本人が自覚しない限り、首に縄を付けて病院に連れていくこともできず、本当に辛かったです。

大人になってから「家庭内で暴れたり、子供に当たり散らして怒鳴るのはフツウではない」とよく分かりました。社会に出てから、「大人」は優しいと知りましたから。

2015年現在、両親とも70歳になりましたが、子供を傷つけてきたという罪の意識は未だに無いようです。結局、父母共に「自分も虐待されて育った。自分が一番傷ついている」という子供時代のエゴから成長できていないのです。

精神的成長を拒否して、「今」ではなく「過去」にこだわりながら生きていることが、機能不全家族・虐待の連鎖が止まらない理由だと私は思います。

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両親が子供じみているので、私と姉が大人として振る舞わなければ破たんは目に見えています。子供時代を子供らしくのびのびと生きることが禁じられた家庭環境でした。

心の休まる時が無く、常に爆弾を抱えているような緊張状態のなか、生まれながらに人生への探究心が強かった私は、「生きる」とは「家族」とは何なのかを考え続けました。さらに直観が鋭いため、両親の嘘に気づいてしまい、傷つくことが多かったです。

私にとって、家庭は安心できる場所ではなく、心を粉々に踏みにじられる非常に危険な場所だったのです。

学校でイジメられ、家では親から虐げられ、安心できる居場所や逃げ場はなく、親には力を奪われ、反抗することも許されませんでした。

この様な環境の場合、非行に走ったり、人をイジメる立場になる可能性もあったかもしれませんが、当時の私はイジメられてもイジメ返そうとは思いませんでしたし、非行は世間に甘えているだけで人生をムダにすると冷静に考えていました。

そして、幼いながらもこうした問題は連鎖すると直感したので、10歳頃には「これ以上傷つく子供を増やしたくない。結婚する前に自分の問題を解決しよう」と決断していました。

小学校卒業時に20歳の自分へ手紙を書く行事がありましたが、「私は20歳まで生きているのだろうか」と疑う程、自分の命に対する不安はずっとありました。

のちに『ぼくは12歳-岡真史詩集』を読んで大変共感したのを覚えています。

20代-人生の転機となるうつ病と自立

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