愛するということ④本当の愛を手に入れる

愛するということ
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エーリッヒ・フロム『愛するということ』より

資本主義と愛

愛の誤解は必ずしも個人だけの問題ではなく、社会全体にも原因があります。資本主義社会で愛が成立しにくくなっています。

資本主義社会が求める人間像とは

大人数で円滑に協力し合う人間
飽くことなく消費したがる人間

好みが標準化されていて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。

また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威、主義、良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をすすんではめ込むような人間である。

(組織の命令に疑問を抱くことなく、他人からの影響を受けやすい個性の無い人間を資本主義社会は作り出している)

今日の人間の幸福は「楽しい」ということであり、楽しいとは何でも「手に入れ」消費すること。

何でも商品化するのが資本主義社会の特徴で、売れない物、商品的価値が付かない物は価値が無く、愛も売買できるもの、お金と交換できるものとして扱われ、人と対峙する際に、仕事、収入、学歴などを見ています。

これは偽りの愛であり、損得で考える、買い物感覚と同じです。

また、自分が必要な時だけ付き合って、要らなくなったら会わなくなるような、「愛」をコントロールできると思っている人が多く、さらに最近は、愛が無くても生きていけると言う人が増えています。

昔は生きていくためには、集団に属していないといけなかったのが、現代は一人一人が自由なぶん、孤独になりました。

すべての人が、自分の事だけのために生きていくと社会は崩壊します。最低限、すべての人をつないでいるものが「愛」であり、しかもその愛は、自己愛を克服した「本当の愛」でないといけません。

愛の習練

これまでは「愛の技術」の理論的側面についての説明でしたが、ここからはそれよりもはるかに難しい問題「愛の技術の習練」についてです。

本書の読者の多くは、「どうしたら愛することができるか」という処方箋を期待していますが、その期待が愛の習練をよけいに難しくしています。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はありません。

ここでできることは、愛の技術の前提条件と愛の技術へのアプローチの習練について論じることだけです。目標への階段は自分の足で登っていかなければなりません。

愛の技術の前提条件

<①規律>
技術の習練には規律が必要で、規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。趣味程度に「気分が乗っている時だけやる」のでは、絶対に愛の技術を習得できない。

ここでいう規律の問題には、毎日一定の時間練習するといったことだけでなく、生活全般における規律も含まれる。現代人は仕事を離れるとほとんど自制心を持たず、だらだら怠けたい(聞こえのいい言葉を使えばリラックスしたい)と思っている。

<②集中>
技術の習得にとって集中は必要条件。誰もが一度にたくさんのことをしている。本も読まず、ラジオも聴かず、おしゃべりもせず、酒も飲まずに、じっと座っていることができない。

一人でいられないのが集中の欠如を示している。逆説的だが、何もしなくても一人で居られる能力こそ、愛する能力の前提条件。

<③忍耐>
性急に結果を求める人は絶対に技術を身に付けることはできない。とはいえ、現代人にとって、忍耐は、規律や集中力と同じくらい体得するのがむずかしい。

なぜなら現代の産業システム全体が、忍耐とは正反対の速さを求めており、人間の価値が経済的価値によって決定されるようになっているからだ。現代人は何でもすばやくやらないと、時間を無駄にしているような気になる。

<④関心>
技術の習練そのものに最高の関心を抱くことも、技術を身に付けるための必要条件の一つ。もしその技術が重要なものでないとしたら、絶対に身に付かないだろう。

せいぜい愛好家になれるくらいで、達人にはなれない。愛の技術においては、ほかの技術の場合よりも愛好家の比率が高いように思われる。

愛するという技術に熟達したかったら、生活のあらゆる場面で規律と集中力と忍耐の習練を積まなければなりません。

テニスをできるようになるには練習が必要なのと同じで、愛にも練習が必要です。しかもスクールはないので、自習しなければなりません。しかも愛を学ぶ為には、愛することができるようになりたいという意欲が必要です。

(三島コメント)②の集中は禅に通じるものを感じます。「いま」とひとつになる体験です。

愛するのに必要なこと

人を愛するのに必要なことは信じること=信念を持つこと。愛に関していえば、重要なのは、自分自身の愛に対する信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができると「信じる」ことである。

次に必要なのは勇気。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持つことはできない。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

信念と勇気の習練の第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかを詳しく調べることだ。

それにより、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中で、愛することを恐れている、ということが分かるだろう。

愛するということは、何の保証もないのにこちらが愛すれば、きっと相手の心に愛が生まれるだろうという希望に自分をゆだねること。信念と勇気が必要。

自分の知らない「無意識の自分」もいて、自分で自分に嘘をつくこともよくあります。

自分が誰かを愛しているこの愛は本物だと自分では信じていても、心の底では信じていないかもしれません。無意識的に気づいていても、意識的に気づいていないこともけっこうあります。

まず嘘がないこと。自分に正直になることが信念です。自分の愛を信じ続けるためには、努力を続けることが必要で、小さい子供が信念を持ち続けることが難しいように、人間的に成熟しないと信念は持てません。

ある意味では、一人で出来るぶん「悟りの境地」に達するほうが、むしろやさしいのではないでしょうか。愛は相手がいるから、相手から否定される可能性があり、だから勇気が必要です。

通じないんじゃないか、ひどい目に遭うんじゃないかと恐れています。傷つけられたくない、傷つくくらいなら愛さないほうがいいと思うと、どうしても最初の一歩が出なくなります。愛と傷つくことは表裏一体なのです。

愛は学ばないとできないものであり、誰もができるものではありません。「愛とは与えること」だと理解できているかで、一歩踏み出せるかが決まります。愛とは、上手くいかない経験を通して深めていくものです。

 

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